会社情報

キヨシゲ創業回顧録

代表取締役 会長 小林茂

貧しくとも輝いていた

――会長のお生まれは長野なんですか?
小林会長 長野市内の外れの方で、北アルプスの峰々を遠くに望む善光寺平という風光明媚な、とても眺めの良いところですよ。故郷はわたしにとって今でも美しく楽しい思い出の場所です。生まれたのは昭和9年10月6日です。昔ですから11人兄弟、2人は亡くなり、わたしは男5人の末っ子なんです。90歳の長兄とその下の兄たちは4人とも戦争に行って今でも健在だし、姉・妹たちも健在でめずらしい長寿の家系ですね。わたしはとにかく下の方ですから、親はどこに行ってもいいよと、ただ人さまに迷惑だけはかけるな、と自由放任でしたね。

――いつごろから商売をやろうと思われたんですか?
小林会長 兄弟は全員きちんとした勤め人なんです。わたしは末っ子で放ったらかしだったせいか、独立心旺盛でしたね。自分の才覚一つ、商売でもやってみたいと思ったんですね。農家でしたが母はわたしが5歳のときに亡くなったんで、父が散々苦労しているのを見ながら育ちました。わたしが生まれた昭和9年は大不況からの回復期でしたが、当時は本当にたいへんだったと父がよく話していました。母は何でも切り盛りする気丈な女性だったようですが、兄弟それぞれに両親の血を受け継いで切磋琢磨しながら育ったのが良かったんだと思いますよ。

――どんな子供時代を過ごされたんですか?
小林会長 昔は今と比べて雪がよく降ったんです。学校に通うのに子供の8割近くは裸足なんですよ。雪の中を裸足で学校まで行くと、廊下を通るころには足がぽかぽかしてくるんです。昼はダルマストーブの周りに皆集まって、持ってきたモチをストーブで焼いて食べました。ちょっと裕福な子だと親にスキーを買ってもらうんですが、うちはそんなことはとてもできないんで竹を削ってスキーを作ったりしましたね。夏は学校から帰るとすぐランドセルを放り出して、川に行って魚やドジョウを捕まえるんです。皆それが当たり前、それで幸せだったんです。勉強なんかするより畑や田んぼで働けと。だから勉強に追いまくられて、部屋でゲーム機で遊ぶような今の子供たちはほんとうに可愛そうだと思いますよ。

――中学生時代はどうでしたか?
小林会長 わたしは国民小学校から新制中学に入った一期生なんです。小学校は町外れにあったんですが、町の中学には近在の生徒たちが集まって1学年で12クラスもありましたよ。わたしは体は小さいけれどスポーツ万能で、卓球の選手をしていました。ヤンチャもいろいろやりましたね。同窓会なんかで当時のことを言われたりしますが、でもみんな楽しい思い出しかないんです。ただ友だちに金持ちの社長の息子がいて、彼の家に行くといつもおいしいお菓子を出される。で、わたしは彼にだけは負けたくないぞと、絶対に成功してやるんだと思いましたね。そんなふうにハングリーな生活を送らざるをえなかったから、少々のことではギブアップしない精神が培われたんだろうと思っていますよ。

――高校はどうされたんですか?
小林会長 長野高校の前身の長野北高校に行きましたが、学資を稼ぐためにいろいろな仕事をしました。もちろん家の畑仕事もしました。商売の面白さを初めて知ったのは、頼まれて小遣い稼ぎに日用品を行商して全部売り切ったときですね。その時分で2割ほど儲けましたか。庭の杏の実を仲買を通さずに自分で売りに行って家族に感謝されたり、そういう商売の勘みたいなものは子供のころから身についていたようです。組織に入るより自分からなにか事業を起こしたい、人の力を引き出し、人を動かす組織を作ってみたい、という商売をやるには何かそういう強い気持ちが必要なんですね。

――高校を卒業されていよいよ商売の道に入られたんですか?
小林会長 はじめ農協を勧められたのをお断りして、やっぱり東京に行かなきゃと江戸川で鉄屋をやっている叔母さん夫婦の所で頑張ってみようと思ったんです。大学に籍を置きながら、社員が3人ぐらいの小さな会社でしたが、修行のつもりで仕事には真剣に取り組みました。半年経って営業に出たんですが、そうしたらわたしが頑張るもんだから会社がどんどん大きくなっていく。これは面白い、きっと私の天職に違いないと、18歳で勤めて将来の社長という夢に向かってまっしぐらになりました。ふつうなら一番遊びたい年頃ですよ。でも大志を抱いておりましたから9年間脇目もふらずに働いて、将来の独立資金のためとコツコツと貯金していきました。そして昭和36年、ついに27歳でその貯金をもとにし独立して一国一城の主として店を構えることができたんです。ちょうどそのころ田舎の共通の知人を介して縁談話が持ち上がり、独立して一年後には妻とめでたく結婚にゴールインしました。商売も結婚も本当にいろいろな人に助けてもらって、新しい人生には勿体無いくらいのスタートでした。

小林 茂

代表取締役 会長

――会長のお生まれは長野なんですか?
小林会長 長野市内の外れの方で、北アルプスの峰々を遠くに望む善光寺平という風光明媚な、とても眺めの良いところですよ。故郷はわたしにとって今でも美しく楽しい思い出の場所です。生まれたのは昭和9年10月6日です。昔ですから11人兄弟、2人は亡くなり、わたしは男5人の末っ子なんです。90歳の長兄とその下の兄たちは4人とも戦争に行って今でも健在だし、姉・妹たちも健在でめずらしい長寿の家系ですね。わたしはとにかく下の方ですから、親はどこに行ってもいいよと、ただ人さまに迷惑だけはかけるな、と自由放任でしたね。

――いつごろから商売をやろうと思われたんですか?
小林会長 兄弟は全員きちんとした勤め人なんです。わたしは末っ子で放ったらかしだったせいか、独立心旺盛でしたね。自分の才覚一つ、商売でもやってみたいと思ったんですね。農家でしたが母はわたしが5歳のときに亡くなったんで、父が散々苦労しているのを見ながら育ちました。わたしが生まれた昭和9年は大不況からの回復期でしたが、当時は本当にたいへんだったと父がよく話していました。母は何でも切り盛りする気丈な女性だったようですが、兄弟それぞれに両親の血を受け継いで切磋琢磨しながら育ったのが良かったんだと思いますよ。

――どんな子供時代を過ごされたんですか?
小林会長 昔は今と比べて雪がよく降ったんです。学校に通うのに子供の8割近くは裸足なんですよ。雪の中を裸足で学校まで行くと、廊下を通るころには足がぽかぽかしてくるんです。昼はダルマストーブの周りに皆集まって、持ってきたモチをストーブで焼いて食べました。ちょっと裕福な子だと親にスキーを買ってもらうんですが、うちはそんなことはとてもできないんで竹を削ってスキーを作ったりしましたね。夏は学校から帰るとすぐランドセルを放り出して、川に行って魚やドジョウを捕まえるんです。皆それが当たり前、それで幸せだったんです。勉強なんかするより畑や田んぼで働けと。だから勉強に追いまくられて、部屋でゲーム機で遊ぶような今の子供たちはほんとうに可愛そうだと思いますよ。

――中学生時代はどうでしたか?
小林会長 わたしは国民小学校から新制中学に入った一期生なんです。小学校は町外れにあったんですが、町の中学には近在の生徒たちが集まって1学年で12クラスもありましたよ。わたしは体は小さいけれどスポーツ万能で、卓球の選手をしていました。ヤンチャもいろいろやりましたね。同窓会なんかで当時のことを言われたりしますが、でもみんな楽しい思い出しかないんです。ただ友だちに金持ちの社長の息子がいて、彼の家に行くといつもおいしいお菓子を出される。で、わたしは彼にだけは負けたくないぞと、絶対に成功してやるんだと思いましたね。そんなふうにハングリーな生活を送らざるをえなかったから、少々のことではギブアップしない精神が培われたんだろうと思っていますよ。

――高校はどうされたんですか?
小林会長 長野高校の前身の長野北高校に行きましたが、学資を稼ぐためにいろいろな仕事をしました。もちろん家の畑仕事もしました。商売の面白さを初めて知ったのは、頼まれて小遣い稼ぎに日用品を行商して全部売り切ったときですね。その時分で2割ほど儲けましたか。庭の杏の実を仲買を通さずに自分で売りに行って家族に感謝されたり、そういう商売の勘みたいなものは子供のころから身についていたようです。組織に入るより自分からなにか事業を起こしたい、人の力を引き出し、人を動かす組織を作ってみたい、という商売をやるには何かそういう強い気持ちが必要なんですね。

――高校を卒業されていよいよ商売の道に入られたんですか?
小林会長 はじめ農協を勧められたのをお断りして、やっぱり東京に行かなきゃと江戸川で鉄屋をやっている叔母さん夫婦の所で頑張ってみようと思ったんです。大学に籍を置きながら、社員が3人ぐらいの小さな会社でしたが、修行のつもりで仕事には真剣に取り組みました。半年経って営業に出たんですが、そうしたらわたしが頑張るもんだから会社がどんどん大きくなっていく。これは面白い、きっと私の天職に違いないと、18歳で勤めて将来の社長という夢に向かってまっしぐらになりました。ふつうなら一番遊びたい年頃ですよ。でも大志を抱いておりましたから9年間脇目もふらずに働いて、将来の独立資金のためとコツコツと貯金していきました。そして昭和36年、ついに27歳でその貯金をもとにし独立して一国一城の主として店を構えることができたんです。ちょうどそのころ田舎の共通の知人を介して縁談話が持ち上がり、独立して一年後には妻とめでたく結婚にゴールインしました。商売も結婚も本当にいろいろな人に助けてもらって、新しい人生には勿体無いくらいのスタートでした。