キヨシゲ

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会社情報

キヨシゲ創業回顧録

代表取締役 会長 小林茂

高度成長の波に乗る

――独立当初のお仕事はどんなふうでしたか?
小林会長 本来ならゼロからお客さんを開拓しなくちゃいけないところなんですが、なんと親戚の会社で9年間営業で開拓してきたお客さんたちがついて来てくれたんです。シゲちゃん、大変だろう、といって仕事をくれるんです。社員は若い者が住み込みで寝食をともにしてくれる。車も2台、3台と増えていくしで、成長にはずみがついてきました。なにより必要性を痛感した本社屋は兄たちからの借金で建てました。当時300万円ほどの借金を1年で利息をつけて完済しましたよ。事務や電話の応対は家内がしっかりやってくれるんで、わたしは営業に全力投球できる環境が整い、それからはお客さんが倍々の勢いで増えていきました。昭和38年には長男、いまの社長、次いで40年には次男、いまの専務が生まれ、家内は子育てと仕事にてんてこ舞する日々でした。イザナギ景気(1966年~70年)のころは仕事がまさに引きも切らない状態でしたね。68年には白鳥工場を建てキヨシゲの基礎固めができた時期といえますね。葛飾区の多額納税者70社にランクインしたのもこのころです。

――順風満帆だったわけですね?
小林会長 鉄鋼業界が時代の花形産業である自動車産業に支えられていたわけで、産業全体のけん引役でしたね。また、当時は人件費が今と比べると安かったし、若い社員は社屋の隣の寮住まいなんで、会社の業績が上がれば社員も豊かになるという具合でした。それで家内は長男をおぶって長野のいなかに行って従業員をリクルートしてくる。家内と私の二人三脚での堅実経営でしたから、若い社員には頼もしいし頑張りがいもあったんでしょう。当時の鉄の商売というのは、ただお金をたくさん積んでこれを売って下さいと言ったって売ってはくれなかったんです。これはどこそこに売ることが決まってるよ、と言われちゃう。人間関係を築き、信用を積まないと欲しいモノも売ってくれない時代でした。まずいい仕事をして信頼を得ることでやっと仕入れをできる状況になったんです。そうしていくうちに単に右から仕入れて左に売ってるだけじゃあダメだなと。この方法ではいずれ限界がくる、これからは加工ができなくちゃダメだと気づいたんです。加工ができればお客さんに提案できる、その提案がお客さんのメリットになれば仕入れルートの確保につながる、というわけです。そこで工場を建て機械を入れて加工を始めたわけです。シャーリングの機械で鉄板を切ってお客さんに売り、出てきたスクラップはうちが買い取る。お客さんに鉄板を売ったら同じお客さんからスクラップを買う、この独自の循環方式も成功した大きな理由だと思っていますよ。

――ご苦労されたことはどんなことですか?
小林会長 とにかく後発ですから、どうやってお客さんに認めてもらうかってことには本当に苦労しました。シャーリングの機械を入れる前は、押し切りを使って人力で薄い鉄板を切っていたんです。これは一例ですが、日中お客さんのところに鉄板を納めに行って、夜スクラップを引き取りに行く。鉄板からフライパンを抜いていくと菱形のスクラップができるんですが、それを切って加工すると電気のボックスができるんで、それをプレス屋さんはみんな欲しがってたんですね。それで夜7時から10時までかけて押し切りで切断しました。それがお客さんにたいそう喜ばれたんです。そうこうしているうちに、これはもう機械を入れる潮時だなと思いましたね。会社と寮と工場が隣同士なんで雨が降っても作業に困らないし、仕事の効率はダン然あがるし、いい時に決断したなと思いますよ。それから高度成長時代は仕事はいくらでもあるけども人手が足りないという時代ですから、採用のときにあまり細かい詮索はしなかったんです。採用した後で、問題を起こすなんていうこともありました。あるとき修羅場になりそうになって、家内に助けられたこともあります。いざとなると女性は強いもので、コワイ相手を口でやり込めたのにはわたしも脱帽でした。

――奥様の功績も大きかったようですね?
小林会長 家内は自分で言うのもヘンですが、気丈だし辛抱づよいし頭の回転も速いんです。住み込みの社員と同居していた時分、仕事が終わるとまず社員に風呂を使わせ夕食をとらせ、それから2人の息子、いまの社長と専務を風呂に入れ、最後に家族の夕飯という順番でした。昼間は事務所で電話取りから事務全体を見、終われば住み込み社員の飯炊きをやり、家庭のことをすべてやり、ふつうだったら耐えられませんよ。家内は文句ひとつ言わずに淡々とこなしていましたからね。趣味はおろか自分のための時間が全くない。大人数で食材は店が届けてくれるんで、気晴らしの買い物にも行ったことがないほどでした。家族と従業員の面倒みながら大勢の兄弟そして親戚との付き合いと、休む暇もない働き振りでしたね。それにしてもこうして今日キヨシゲがあるのは、つらくとも頑張ってくれた従業員、厳しい注文をつけながらも商売を広げてくれたお客さん方、物心両面で支えてくれた兄弟・親戚のお陰とほんとうに感謝しています。

――いざなぎ景気が終わってからはどうでしたか?
小林会長 1970年に法人組織にし東京鋼板シヤー組合にも加盟が許されて、これでキヨシゲもどうにか鉄屋として認められたなと感じましたね。当時の組合はいまと違って非常に敷居が高かったんです。わたしみたいな35、36の若造は入れてくれなかったんですが、一生懸命自分を売り込んだんです。そして71年にはこの浦安鐵鋼団地内に工場を建てました。ほどなく大手一流商社にも出入りできるようになって、ようやく会社の基盤が固まったわけです。こんなふうで大きく分けると、60年から75年まではキヨシゲの基盤ができあがった第一成長期、75年から85年までの10年間は第二の拡大期ということができます。この間、すばらしい社員と商売を広げてくれたお客さん方に恵まれたことがキヨシゲ発展の原動力になったと思っています。次回はそんなキヨシゲを支えてくれた“ウルトラマンたち”のお話をしようと思います。

小林 茂

代表取締役 会長

――独立当初のお仕事はどんなふうでしたか?
小林会長 本来ならゼロからお客さんを開拓しなくちゃいけないところなんですが、なんと親戚の会社で9年間営業で開拓してきたお客さんたちがついて来てくれたんです。シゲちゃん、大変だろう、といって仕事をくれるんです。社員は若い者が住み込みで寝食をともにしてくれる。車も2台、3台と増えていくしで、成長にはずみがついてきました。なにより必要性を痛感した本社屋は兄たちからの借金で建てました。当時300万円ほどの借金を1年で利息をつけて完済しましたよ。事務や電話の応対は家内がしっかりやってくれるんで、わたしは営業に全力投球できる環境が整い、それからはお客さんが倍々の勢いで増えていきました。昭和38年には長男、いまの社長、次いで40年には次男、いまの専務が生まれ、家内は子育てと仕事にてんてこ舞する日々でした。イザナギ景気(1966年~70年)のころは仕事がまさに引きも切らない状態でしたね。68年には白鳥工場を建てキヨシゲの基礎固めができた時期といえますね。葛飾区の多額納税者70社にランクインしたのもこのころです。

――順風満帆だったわけですね?
小林会長 鉄鋼業界が時代の花形産業である自動車産業に支えられていたわけで、産業全体のけん引役でしたね。また、当時は人件費が今と比べると安かったし、若い社員は社屋の隣の寮住まいなんで、会社の業績が上がれば社員も豊かになるという具合でした。それで家内は長男をおぶって長野のいなかに行って従業員をリクルートしてくる。家内と私の二人三脚での堅実経営でしたから、若い社員には頼もしいし頑張りがいもあったんでしょう。当時の鉄の商売というのは、ただお金をたくさん積んでこれを売って下さいと言ったって売ってはくれなかったんです。これはどこそこに売ることが決まってるよ、と言われちゃう。人間関係を築き、信用を積まないと欲しいモノも売ってくれない時代でした。まずいい仕事をして信頼を得ることでやっと仕入れをできる状況になったんです。そうしていくうちに単に右から仕入れて左に売ってるだけじゃあダメだなと。この方法ではいずれ限界がくる、これからは加工ができなくちゃダメだと気づいたんです。加工ができればお客さんに提案できる、その提案がお客さんのメリットになれば仕入れルートの確保につながる、というわけです。そこで工場を建て機械を入れて加工を始めたわけです。シャーリングの機械で鉄板を切ってお客さんに売り、出てきたスクラップはうちが買い取る。お客さんに鉄板を売ったら同じお客さんからスクラップを買う、この独自の循環方式も成功した大きな理由だと思っていますよ。

――ご苦労されたことはどんなことですか?
小林会長 とにかく後発ですから、どうやってお客さんに認めてもらうかってことには本当に苦労しました。シャーリングの機械を入れる前は、押し切りを使って人力で薄い鉄板を切っていたんです。これは一例ですが、日中お客さんのところに鉄板を納めに行って、夜スクラップを引き取りに行く。鉄板からフライパンを抜いていくと菱形のスクラップができるんですが、それを切って加工すると電気のボックスができるんで、それをプレス屋さんはみんな欲しがってたんですね。それで夜7時から10時までかけて押し切りで切断しました。それがお客さんにたいそう喜ばれたんです。そうこうしているうちに、これはもう機械を入れる潮時だなと思いましたね。会社と寮と工場が隣同士なんで雨が降っても作業に困らないし、仕事の効率はダン然あがるし、いい時に決断したなと思いますよ。それから高度成長時代は仕事はいくらでもあるけども人手が足りないという時代ですから、採用のときにあまり細かい詮索はしなかったんです。採用した後で、問題を起こすなんていうこともありました。あるとき修羅場になりそうになって、家内に助けられたこともあります。いざとなると女性は強いもので、コワイ相手を口でやり込めたのにはわたしも脱帽でした。

――奥様の功績も大きかったようですね?
小林会長 家内は自分で言うのもヘンですが、気丈だし辛抱づよいし頭の回転も速いんです。住み込みの社員と同居していた時分、仕事が終わるとまず社員に風呂を使わせ夕食をとらせ、それから2人の息子、いまの社長と専務を風呂に入れ、最後に家族の夕飯という順番でした。昼間は事務所で電話取りから事務全体を見、終われば住み込み社員の飯炊きをやり、家庭のことをすべてやり、ふつうだったら耐えられませんよ。家内は文句ひとつ言わずに淡々とこなしていましたからね。趣味はおろか自分のための時間が全くない。大人数で食材は店が届けてくれるんで、気晴らしの買い物にも行ったことがないほどでした。家族と従業員の面倒みながら大勢の兄弟そして親戚との付き合いと、休む暇もない働き振りでしたね。それにしてもこうして今日キヨシゲがあるのは、つらくとも頑張ってくれた従業員、厳しい注文をつけながらも商売を広げてくれたお客さん方、物心両面で支えてくれた兄弟・親戚のお陰とほんとうに感謝しています。

――いざなぎ景気が終わってからはどうでしたか?
小林会長 1970年に法人組織にし東京鋼板シヤー組合にも加盟が許されて、これでキヨシゲもどうにか鉄屋として認められたなと感じましたね。当時の組合はいまと違って非常に敷居が高かったんです。わたしみたいな35、36の若造は入れてくれなかったんですが、一生懸命自分を売り込んだんです。そして71年にはこの浦安鐵鋼団地内に工場を建てました。ほどなく大手一流商社にも出入りできるようになって、ようやく会社の基盤が固まったわけです。こんなふうで大きく分けると、60年から75年まではキヨシゲの基盤ができあがった第一成長期、75年から85年までの10年間は第二の拡大期ということができます。この間、すばらしい社員と商売を広げてくれたお客さん方に恵まれたことがキヨシゲ発展の原動力になったと思っています。次回はそんなキヨシゲを支えてくれた“ウルトラマンたち”のお話をしようと思います。