会社情報

キヨシゲ創業回顧録

代表取締役 会長 小林茂

――今回は最終回です。創業50周年も近いですが、予告では今日のキヨシゲさんをあらしめた功労者についてのお話ということでした。会長にとってのウルトラマンとは誰だったのでしょうか。
小林会長 前回お話したように、1960年に創業したときは里の兄弟に援助してもらったりしましたが、必死に働いてその借金もちゃんと利息をつけて1年で完済しました。それからはずっと家内と二人三脚でやってきたわけですが、葛飾区の多額納税者70社まで規模が大きくなると、家内がひとりで経理を見ていればすむ話ではなくなってきたんです。しっかりした経理マンに管理させなければダメだし、対外的にも会社としての体制を整えておく必要がありました。そこで千葉銀行の融資を担当している人から紹介してもらったのが、さる大手企業出身で経理の経験豊富な優秀な人でした。これでやっと家内は、昭和46年に会社の経理事務から手を引いて、家庭に退くことが出来たわけです。8歳の長男を頭に6歳の次男、生まれて1年ちょっとの三男と、一番手のかかる頃ですから仕事をやめるにはちょうど良い時期でした。とはいっても、完全に会社にノータッチになったわけではなくて、社員の面倒は相変わらず見ていたし、経営についても意見したりしてましたから、ふつうの主婦の何倍も忙しかったんです。

――会長は、これで営業や経営に専念できるようになったのですか。
小林会長 最初のうち、大企業の出身の人が果たしてウチのような中小零細の水に合うかと、実は心配もあったんです。結論から言うと、人間だから良い所も悪い所もいっぱいあって当然なので、私としては彼の良い考え方、アイデアだけを取り入れてそれを社内改革に活かしていったわけです。月に一度、社員全員が集まって会社全般のことを話し合う会議をやるようになったのは彼のアイデアだったし、伝票関係の合理化を進めてくれたのも彼の功績です。それまでメモ書きで済ませていた受発注用のフォームを作ってくれたり、名実ともに会社としての体制が整ってきたのは、これは間違いなく彼のお陰ですよ。 でも大手出身の人というのは、頭を下げるのが下手なんですね。はじめて集金に行ってもらった時なんかお客さんに請求書を出したっきり黙ってるんで、お客さんからこんな人に金払えない、あんたが来てくれってえらい剣幕で電話がかかってきたことがありました。私より5歳も上の人ですが中小零細企業での仕事の進め方、お客様との付き合い方についてこんこんと諭しました。彼もそれですっかり考えを改めて、以後そんなことはなくなりましたけどね。 私との大阪出張に、新幹線のグリーン車を予約しようとしたこともあったな。そりゃ、大手の社長・役員はグリーン車が当たり前なんでしょうが、ウチのような中小零細ではとんでもない話で、出張手当もないし、タクシーもダメ。私は断腸の思いでこれを徹底させたんです。でも、彼は押し出しがいい。私と初めてのお客さんの所に行くと、たいがい彼が社長とまちがわれるんですね。キヨシゲのような中小零細にもこんな立派な人がいる、ということで対外的なイメージを良くする点でもプラスでしたね。

――その方は定年まで勤められたのですか。
小林会長 昭和44年から平成6年まで最初は役員待遇で、後に専務取締役としてうちで25年の長きにわたって働いてもらいました。最後の頃はかなり体調を崩して出勤できなくなったのは残念な事でした。その間に家のことに専心した家内が息子たちをしっかり育ててくれ、長男は銀行、次男は損保にそれぞれ就職し、いずれ会社を継いでくれる下地が出来てきたわけです。ですから、当社の高度成長期に重なる創業からの第1成長期に続く、第2成長期が軌道に乗ったのはやはり彼のお陰だったと言えます。
  平成3年に長男を5年間修行した千葉銀行から呼び戻し、経理関係を改めてチェックさせたところが、長年の間にいろんな問題が山積みになっていたんです。これでまっ青になった。中小零細には到底許されないようなムダがいっぱいあったんですよ。独立系オーナー企業ということで外部監査がなかったし、縁故採用に頼っていたため人の入れ替えもなくて、結局、そういった諸々のうえにあぐらをかいていたんでしょうな。気が付いたら世の中の変化に対応出来なくなっていた。社長がそれで務まるのかと言われればそれまでですが、私は実際、経営上のあれこれの細かいことに気を遣うより、商売に全力投球するほうが性に合っているんですね。子供の頃からの商売上手ですから(回顧録1回目参照)。それであまり先々のことまで考えずに最新式の大型機械にポンと投資してしまった。太っ腹な資本家ですかな(笑い)。そうすると、その後のフォローをさせられる者たちがパニックを起こす。それらを全部うまくまとめて最善の方向にリードして行ってくれたのが、平成18年に社長に就任した長男なんですね。

――そうやって買われた大型機械は今どうなっているのですか。
小林会長 結果的には、それがキヨシゲの仕事を大きく飛躍させるきっかけになったんです。昭和59年にある取引先で1億円近い不良債権が発生して、その処理をどうしようか思い悩んだあげく、「今の時代、ただ鉄を売ってるだけじゃダメだ。加工をやらなければ生き残れない」と考えて、それにはまずプレスの導入だと、結論ありきでプレス機械を買ってしまった。そうしたら、どうやって動かすのか、工場の誰も分からない。製品をどうやって売っていけばいいのか、営業の誰も分からない。とにかくお客の見込みもなしに買ってしまったんで、これをしっかり使えるものにし、売り込んでいけるものにしていくのに、それこそ現場の社員は昼夜兼行の奮闘をしたわけですよ。
  平成2年にレーザーを導入したときも事情は同様でした。取引先のニーズは、少量、多品種、短納期で、それに応える事で仕事がどんどん入ってきました。それでゴルフコンペの帰りに機械メーカーの営業マンの勧めもあって、勢いでレーザーマシンをポンと買ってしまった。買ってから気がついたら、機械を置く場所も建屋もない。さて、どうしようかと思っていた矢先に、隣地が工場移転のため、どうしても小林さんに買ってもらいたいと話があり、トントン拍子で土地を求める事ができた。そこに建屋を建ててやっと機械を設置できたようなわけです。この時も現場の社員が血のにじむような努力をしてくれて、それがいまのキヨシゲに繋がってきています。まぁ、私の与えたムチャクチャな課題をクリアすることによって、キヨシゲはそのつど大きく成長してきた。それを可能にした大勢のウルト ラマン社員たちにはいくら感謝してもしきれるもんじゃありません。彼らがいたからこ そ、私はこれまで好き勝手な事をしてこれたんだなぁ、と今つくづく思いますよ。

――その時期はご長男が入社された時期と重なっていませんか。
小林会長 その通りです。平成3年に長男が入社した時は、キヨシゲの長年の制度疲労とバブル崩壊が一緒になって降りかかってきたという最悪のシナリオで、長男が一大決心して会社の大改革に乗り出した時期なんです。仕入れ・販売関係から人事・採用、全社コンピュータ化、与信管理まですべてに渡って、会社創業以来の大改革に着手したんです。そのうえにキヨシゲの第3の成長期・充実期が花開いたわけで、その意味では長男もまたウルトラマンだったわけですね。

――いま次男の方は専務を務めていらっしゃいますね。
小林会長 そうです。次男も平成6年に損保会社をやめて、社長をサポートするということで入社しました。社長がリーダーシップを取り会社の進むべき方向を示し、専務が緻密な行動計画を立て実行している。二人三脚で歯車は非常にうまくかみ合っています。先を見た人材投資、人の教育に力を入れており、こんな時代でも毎年着実に伸びています。私が創業して土台固めをやり、二代目が私の苦労を見ながら勉強して会社を成長させてくれている。私の商売の原点は、商売に“おごり”や“高ぶり”はダメということです。世間の支持あっての商売ですから、あの会社ダメだよ、なんて言われたらお終いです。おごったり、高ぶったりしたら必ずつぶされるということです。こんなふうにしっかりした後継者とそれを盛り立ててくれる社員に恵まれたことに、私はつくづく感謝しなければいけないなと思っています。その息子たちをしっかり教育したのが家内。私は脇から言いたいことを言ってるだけで、だから家内も当然ウルトラマン(笑い)。息子達も家内には感謝していると思いますよ。

――キヨシゲさんの強さの秘密が垣間見えたように思います。どうもありがとうございました。

小林 茂

代表取締役 会長

――今回は最終回です。創業50周年も近いですが、予告では今日のキヨシゲさんをあらしめた功労者についてのお話ということでした。会長にとってのウルトラマンとは誰だったのでしょうか。
小林会長 前回お話したように、1960年に創業したときは里の兄弟に援助してもらったりしましたが、必死に働いてその借金もちゃんと利息をつけて1年で完済しました。それからはずっと家内と二人三脚でやってきたわけですが、葛飾区の多額納税者70社まで規模が大きくなると、家内がひとりで経理を見ていればすむ話ではなくなってきたんです。しっかりした経理マンに管理させなければダメだし、対外的にも会社としての体制を整えておく必要がありました。そこで千葉銀行の融資を担当している人から紹介してもらったのが、さる大手企業出身で経理の経験豊富な優秀な人でした。これでやっと家内は、昭和46年に会社の経理事務から手を引いて、家庭に退くことが出来たわけです。8歳の長男を頭に6歳の次男、生まれて1年ちょっとの三男と、一番手のかかる頃ですから仕事をやめるにはちょうど良い時期でした。とはいっても、完全に会社にノータッチになったわけではなくて、社員の面倒は相変わらず見ていたし、経営についても意見したりしてましたから、ふつうの主婦の何倍も忙しかったんです。

――会長は、これで営業や経営に専念できるようになったのですか。
小林会長 最初のうち、大企業の出身の人が果たしてウチのような中小零細の水に合うかと、実は心配もあったんです。結論から言うと、人間だから良い所も悪い所もいっぱいあって当然なので、私としては彼の良い考え方、アイデアだけを取り入れてそれを社内改革に活かしていったわけです。月に一度、社員全員が集まって会社全般のことを話し合う会議をやるようになったのは彼のアイデアだったし、伝票関係の合理化を進めてくれたのも彼の功績です。それまでメモ書きで済ませていた受発注用のフォームを作ってくれたり、名実ともに会社としての体制が整ってきたのは、これは間違いなく彼のお陰ですよ。 でも大手出身の人というのは、頭を下げるのが下手なんですね。はじめて集金に行ってもらった時なんかお客さんに請求書を出したっきり黙ってるんで、お客さんからこんな人に金払えない、あんたが来てくれってえらい剣幕で電話がかかってきたことがありました。私より5歳も上の人ですが中小零細企業での仕事の進め方、お客様との付き合い方についてこんこんと諭しました。彼もそれですっかり考えを改めて、以後そんなことはなくなりましたけどね。 私との大阪出張に、新幹線のグリーン車を予約しようとしたこともあったな。そりゃ、大手の社長・役員はグリーン車が当たり前なんでしょうが、ウチのような中小零細ではとんでもない話で、出張手当もないし、タクシーもダメ。私は断腸の思いでこれを徹底させたんです。でも、彼は押し出しがいい。私と初めてのお客さんの所に行くと、たいがい彼が社長とまちがわれるんですね。キヨシゲのような中小零細にもこんな立派な人がいる、ということで対外的なイメージを良くする点でもプラスでしたね。

――その方は定年まで勤められたのですか。
小林会長 昭和44年から平成6年まで最初は役員待遇で、後に専務取締役としてうちで25年の長きにわたって働いてもらいました。最後の頃はかなり体調を崩して出勤できなくなったのは残念な事でした。その間に家のことに専心した家内が息子たちをしっかり育ててくれ、長男は銀行、次男は損保にそれぞれ就職し、いずれ会社を継いでくれる下地が出来てきたわけです。ですから、当社の高度成長期に重なる創業からの第1成長期に続く、第2成長期が軌道に乗ったのはやはり彼のお陰だったと言えます。
  平成3年に長男を5年間修行した千葉銀行から呼び戻し、経理関係を改めてチェックさせたところが、長代表取締役 会長 小林茂年の間にいろんな問題が山積みになっていたんです。これでまっ青になった。中小零細には到底許されないようなムダがいっぱいあったんですよ。独立系オーナー企業ということで外部監査がなかったし、縁故採用に頼っていたため人の入れ替えもなくて、結局、そういった諸々のうえにあぐらをかいていたんでしょうな。気が付いたら世の中の変化に対応出来なくなっていた。社長がそれで務まるのかと言われればそれまでですが、私は実際、経営上のあれこれの細かいことに気を遣うより、商売に全力投球するほうが性に合っているんですね。子供の頃からの商売上手ですから(回顧録1回目参照)。それであまり先々のことまで考えずに最新式の大型機械にポンと投資してしまった。太っ腹な資本家ですかな(笑い)。そうすると、その後のフォローをさせられる者たちがパニックを起こす。それらを全部うまくまとめて最善の方向にリードして行ってくれたのが、平成18年に社長に就任した長男なんですね。

――そうやって買われた大型機械は今どうなっているのですか。
小林会長 結果的には、それがキヨシゲの仕事を大きく飛躍させるきっかけになったんです。昭和59年にある取引先で1億円近い不良債権が発生して、その処理をどうしようか思い悩んだあげく、「今の時代、ただ鉄を売ってるだけじゃダメだ。加工をやらなければ生き残れない」と考えて、それにはまずプレスの導入だと、結論ありきでプレス機械を買ってしまった。そうしたら、どうやって動かすのか、工場の誰も分からない。製品をどうやって売っていけばいいのか、営業の誰も分からない。とにかくお客の見込みもなしに買ってしまったんで、これをしっかり使えるものにし、売り込んでいけるものにしていくのに、それこそ代表取締役 会長 小林茂現場の社員は昼夜兼行の奮闘をしたわけですよ。
  平成2年にレーザーを導入したときも事情は同様でした。取引先のニーズは、少量、多品種、短納期で、それに応える事で仕事がどんどん入ってきました。それでゴルフコンペの帰りに機械メーカーの営業マンの勧めもあって、勢いでレーザーマシンをポンと買ってしまった。買ってから気がついたら、機械を置く場所も建屋もない。さて、どうしようかと思っていた矢先に、隣地が工場移転のため、どうしても小林さんに買ってもらいたいと話があり、トントン拍子で土地を求める事ができた。そこに建屋を建ててやっと機械を設置できたようなわけです。この時も現場の社員が血のにじむような努力をしてくれて、それがいまのキヨシゲに繋がってきています。まぁ、私の与えたムチャクチャな課題をクリアすることによって、キヨシゲはそのつど大きく成長してきた。それを可能にした大勢のウルト ラマン社員たちにはいくら感謝してもしきれるもんじゃありません。彼らがいたからこ そ、私はこれまで好き勝手な事をしてこれたんだなぁ、と今つくづく思いますよ。

――その時期はご長男が入社された時期と重なっていませんか。
小林会長 その通りです。平成3年に長男が入社した時は、キヨシゲの長年の制度疲労とバブル崩壊が一緒になって降りかかってきたという最悪のシナリオで、長男が一大決心して会社の大改革に乗り出した時期なんです。仕入れ・販売関係から人事・採用、全社コンピュータ化、与信管理まですべてに渡って、会社創業以来の大改革に着手したんです。そのうえにキヨシゲの第3の成長期・充実期が花開いたわけで、その意味では長男もまたウルトラマンだったわけですね。

――いま次男の方は専務を務めていらっしゃいますね。
小林会長 そうです。次男も平成6年に損保会社をやめて、社長をサポートするということで入社しました。社長がリーダーシップを取り会社の進むべき方向を示し、専務が緻密な行動計画を立て実行している。二人三脚で歯車は非常にうまくかみ合っています。先を見た人材投資、人の教育に力を入れており、こんな時代でも毎年着実に伸びています。私が創業して土台固めをやり、二代目が私の苦労を見ながら勉強して会社を成長させてくれている。私の商売の原点は、商売に“おごり”や“高ぶり”はダメということです。世間の支持あっての商売ですから、あの会社ダメだよ、なんて言われたらお終いです。おごったり、高ぶったりしたら必ずつぶされるということです。こんなふうにしっかりした後継者とそれを盛り立ててくれる社員に恵まれたことに、私はつくづく感謝しなければいけないなと思っています。その息子たちをしっかり教育したのが家内。私は脇から言いたいことを言ってるだけで、だから家内も当然ウルトラマン(笑い)。息子達も家内には感謝していると思いますよ。

――キヨシゲさんの強さの秘密が垣間見えたように思います。どうもありがとうございました。